1月の聖句
1月の聖句
(使徒言行録 20章35節)
誰でも、もらうことが大好きです。クリスマスや年末年始で、プレゼントやお年玉をもらうことも多かったかもしれません。
でも、「もらううれしさ」はわかりますが、「あげるうれしさ?」はあまりピンとこないものです。
私が子供のころ、私の母は、夕ご飯のおかずで「これおいしいねぇ!」というと、とてもうれしそうでした。そこまではいいのですが、次の日も同じ料理をもう一度作ったりしたのは、子供心に閉口したのを思い出します。
「おかあさん、昨日は美味しかったけど、同じ料理が続くと嬉しくないなぁ」というと、「あら、そう?おいしいって言ったじゃない!」と妙に天然なところがありました。少し年齢が上がってくると、私は、「本当にかあさんは常識がないんだから!」とバカにしていました。しかし、自分が大人になって、外国人のお世話をしている最近のことです。私の大好きな辛子明太子が食べられないというアジアの国の若いメンバーがいました。「おいしいから食べてごらんよ」といっても、「いえ、気持ち悪いからいいです」ときっぱり。少しがっかりして、私は電子レンジでチンして一人で食べていました。すると、「あら、それおいしそうねぇ」と言って食べてみました。すると本当に気に入ったみたいで、私の分まで全部食べてしまいました。次の日仕事帰りにスーパーによったとき、「そうだ、辛子明太子を買ってまた食べさせてあげよう。あんなにおいしそうに食べてたから」と手に取りながら、母のことを思い出しました。そして似たことを思う自分を少し恥ずかしく思い、同時に母の気持ちがわかった気がしました。
大切に思う人が喜んだら、あげた方ももっと嬉しい。そして、もっとしてあげたい、と思うのが親心で愛なんだな、と思いました。もらうより、あげることの喜び、それを痛感した瞬間でした。神様は、私たち一人一人に、それぞれいろんなものをくれています。「ありがとう」と喜んだら、親がそうであるように、神様ももっと嬉しいのでしょう。そんな、ありがとうの連鎖が広がったなら、もっと良い社会になるんだろうな。
園長 徳弘浩隆