9月の聖句
9月の聖句
コリントの信徒への手紙二 12章9節
「恵み」とは贈り物である。こちら側にいただく理由がなくとも与えられるものが「恵み」である。従って、「恵み」は受ける資格を要求しない。「恵み」は、ただ受けることを前提にしている。
「恵み」を受ける資格を云々する場合、良いものしか「恵み」とは呼ばない。何故なら、悪いことを与えられるのは資格がない人だと考えるからである。良いものを受ける資格があるからこそ「恵み」をいただくのだと考えるからである。この場合、悪いものは排除され、良いものだけを受けるための資格を獲得するために汲々とすることになる。その場合、恵みは贈り物とはなり得ない。資格に従って、その人が獲得するものとなる。また、恵みを判断するのは資格のある人間ということになるのだ。これは恵みではない。
恵みは、神が与えるものであってみれば、如何なるものも恵みである。わたしがもらいたいものももらいたくないものも、神が与えるものである。わたしの存在自体が恵みである。わたしが生まれてもいないのに、わたしに命が与えられる資格などあり得ないからである。わたしたちが存在自体を恵みとして神によって生かされているとすれば、わたしが生きる上で与えられるものはすべて恵みである。たとえ、わたしにとって都合悪く、欲しくないと思えるものであろうとも、神の恵みである。従って、「恵み」はただありのままに受けるものなのである。
ありのままに受けることが「恵み」の受け取り方であるとすれば、わたしたちが「これは恵みだ」、「これは災いだ」と判断することではないということになる。キリストも十字架に架けられたが、神から受けるものとして十字架を引き受けられた。子どもたちもありのままに生きることができる。そのとき、子どもたちは神のものとして如何なる時も喜び生きるであろう。
チャプレン 末竹十大