12月の聖句
12月の聖句
ルカによる福音書 2章11節
野宿していた羊飼いたちに、天使が現れ、告げる。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と。「救い主」は「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であり、それが「しるし」だと言われる。「しるし」というものは「本体」を指し示すものである。天使は「救い主が生まれた」のだと言うが、「乳飲み子」は救い主の「しるし」である。聖書の信仰においては救い主は神なのだから。では、イエス・キリストは「救い主」ではないのだろうか。
「救い主」である神を指し示す「しるし」として、イエス・キリストは「救い主」であるのだ。使徒パウロが言う如く、「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられる。」(2コリント13:4)からである。キリストによって「生かすお方」が指し示されるからである。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」は、神が生かしている弱い存在である。「飼い葉桶」という低きところに、場所のない生を受けたイエス・キリスト。このお方が存在そのものによって、我々が神の力によって生きていることを指し示すからである。
居場所のない羊飼いたちにしか探し出されないような「飼い葉桶の中」にいるキリスト。それゆえに、低くされ、場所のない存在、弱き者たちが「わたしたちのために生まれた」と受け取ることができるのである。子どもたちも低い存在である。しかし、神から見れば、大切な存在である。ご自分の御子を死に渡すほどに大切な存在なのである。「飼い葉桶の中に」生まれたイエス・キリストを喜ぶのは、この世で低くされている者たちである。あなたがたが低くされているならば、クリスマスに生まれる乳飲み子を喜ぶであろう。何もできないが、救いをもたらす乳飲み子を。この乳飲み子によって、場所のない存在が場所を与えられ、救いに与る。これがクリスマスの喜びである。天使の知らせは、低き者にこそ聞こえる喜びの知らせである。自らの低さに思いを向けて、「救い主」の誕生をお迎えしよう。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」
チャプレン 末竹十大