10月の聖句
10月の聖句
コロサイの信徒への手紙 3章14節
「愛」は「帯」であると言う。「きずな」と訳されているが「帯」「靱帯」を意味する言葉である。「帯」とは、着ているものすべてをまとめて、しっかり留めるものである。体から外れないように留めるものである。それが「愛」であるとこの手紙の著者は言う。なぜ「愛」が「帯」なのであろうか。わたしに与えられたさまざまなものは「愛」において留められなければ真実に働かないという意味である。そうでなければ、我々は自分が持っていると思うものによって、自分を良く見せようとし、自分が何事かができる存在であることを示そうとするからである。
「憐れみ」や「謙遜」や「親切」や「柔和」や「忍耐」というものは、それによってこのわたしが憐れみ深い人間であると示してしまう誘惑に陥らせる。謙遜であるわたし、親切であるわたし、柔和であるわたし、忍耐強いわたしは、素晴らしい人間であると人に示すことができるのである。こうして、我々は自分を誇ることにもなる。そして、神から離れる。この神から離れさせないものが「愛」という「帯」なのである。
神の「愛」は、無償である。従って、見返りを求めない。そのような「愛」という「帯」に締められている者は、「親切なわたし」などという自己評価をしないのである。ただ与えるだけである。ただ行うだけである。そして、忘れる。忘れない行為は結果的に自己満足であり、自分のために行っているだけである。イエスが「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」(マタイ6:3)とおっしゃった通りである。
我々親が、子どもに「これだけ愛して、育てたのに」と言うとすれば、それは「愛」という「帯」を締めていないということである。我々も子どもに自分を評価して欲しいと思ってしまうが、神の「愛」の「帯」を締められているならば、そうはならないのだ。なぜなら、その「愛」を行ったのはわたしではないと知っているからである。ただ神の「愛」がわたしを用いて、この子のために働いてくれたと感謝するのである。そのような「愛」に生きる者でありたい。
チャプレン 末竹十大