9月の聖句
9月の聖句
コリントの信徒への手紙一 15章10節
わたしという存在は如何にして存在するのかという問いは、わたしが他者を他者として認識するようになることで生じる。わたしと他者との間にある隔たりが見えてくることで、わたしという存在を認識するようになる。このわたしは、あの人とは違う存在である。わたしにはわたしがある。あの人にもわたしがある。わたしを認識するわたしという点では、わたしも他者も同じ「わたし」を知っているのである。
ところがわたしはわたしを生きるために、他者に助けてもらうものであるから、他者がわたしのためにあるように思える。わたしの世界にすべてがわたしに仕えていると思える。そのような「わたしの世界」を他者も持っており、わたしを生きているのだとすれば、「わたしの世界」というわたしにすべてが仕える世界があるのではない。他者もその人の「わたしの世界」にすべてが仕えていると思っているのだから、無数に「わたしの世界」があることになる。
すべてがわたしのためにあると感じることは、わたしがわたしを持っているからである。そして、わたしの世界を拡張して行く。この拡張が戦争を引き起こし、他者のわたしを駆逐していく。このような世界の中で、わたしが駆逐される側に貶められるとき、「わたしの世界」争いの間違いを認めるであろう。しかし、「わたしの世界」拡張競争に勝っている側には分からないのである。
パウロは勝っている側に生きていた。ところが、負けている側であるイエスとの出会いを通して、絶望に落とされ、すくい上げられた。この経験を通して、「わたしの世界」争いがない世界をパウロは見出した。それが「神の恵み」である。わたしがあるところの者であるのは、「神の恵み」によってあるのだと見出したのだ。すべての「わたしの世界」を包む「神の恵み」を見出したのだ。わたしは「神の恵み」によって、「ある」だけではなく、常に生成され、他者と共に生かされているのだと。この大いなる世界を認めるとき、我々は「神の恵み」によって如何なる状態においても生きることが可能となる。あなたもこどもたちも如何様にも生きることができるのだ。神が生かしておられるのだから。
チャプレン 末竹十大