9月の聖句
9月の聖句
コリントの信徒への手紙二 4章16節
「内なる人」というのは魂であり、「外なる人」は身体です。魂は精神でもあり、感覚的なものは身体的なものです。感覚に惑わされるということは、精神が弱い場合に起こります。人間の視覚というものも惑わしに弱いものです。手品などは視覚的惑わしを上手く利用しているわけです。精神が強い場合、感覚に惑わされることなく、正しい認識を持つことができるわけですが、精神が強い状態とはどのような状態でしょうか。使徒パウロはそれを「内なる人」と呼んでいます。
ここで語られている「内なる人」とは更新された人間の魂のことですが、自然的魂は身体的感覚に惑わされます。精神が弱いということは「内なる人」が成熟していないということです。その成熟のために何が必要なのかと言えば、見えているものと見えていないものを区別する正しい認識です。この認識に目覚めたのが近代哲学の祖と言われるルネ・デカルトという哲学者でした。
デカルトは「我思う。ゆえに、我あり」と言いました。デカルトは精神が感覚に惑わされているのだとまず疑うことを勧めました。見えているものだけが正しいと感覚に頼っている限り、物事の正しい認識に至ることができないと考えたのです。デカルトは、すべてを疑った後に、唯一疑い得ない認識は「我思う」というこのわたしが考えている状態だと言いました。惑わされていない精神によって、世界は正しく認識される。この惑わされていない精神こそ、パウロが言う「内なる人」なのです。これは信仰によって至る認識であると言えます。
わたしたち保育者や保護者も、こどもたちの見えるところに惑わされてしまうものです。彼らの見えていないものにこそ目を注いで行きましょう。彼らのうちに働いてくださる神はわたしたちの感覚を越えたところで、相応しくこどもたちを正しい道に導いてくださいます。
チャプレン 末竹十大